shanの落書き帳

ポケモンときどき〇〇

「ものべの」から見る妖怪についての持論とその他雑感

 

こんにちは、shanです。

「ものべの」というゲームをプレイしたらあまりにも言いたいことがあふれてきてしまったので、本編の感想とは別に思ったことをつらつらと備忘録代わりに書き残しておくことにしました。

なお筆者は柳田国男すら読んだことがないくらい民俗学については素人であることをご承知おきください。

 

なお本編の感想は後程上げますので、興味がない方はそちらのみお読みください。

 

 

 

以下、常体。

 

 

 

 

まずは軽く本編の紹介から。

「ものべの」は人間と妖怪が共存する山奥の小さな村「茂伸(ものべの)」に帰省した主人公と妹が、ある事件に巻き込まれていく話で、いま語った通り、妖怪が普通に登場することがポイントである。

私は同じ妖怪ものとして「夏目友人帳」が大好きなのだが、あの作品も舞台は熊本県のとある田舎であり、妖怪ものにおいて田舎という舞台は切っても切れない関係にあると言える。

妖怪が出るところと聞いて大多数の人が思い浮かべるのは深い山々に囲まれた田舎の風景ではないだろうか。そのような風景は日本人なら誰もが持っているノスタルジーを刺激し、それゆえ妖怪のでてくる物語にはある種の郷愁が付きまとうものだと考える。

 

この物語は主人公と妹が「土佐山田」というJRの駅に降り立つことから物語が始まる。2人はそこから1日に1本しか運行していない村営バスに乗って大土地(おおとち)という場所に向かう。さらにそこからまたバスに乗って、主人公たちの家まで行くのだが、実はこの「土佐山田」、また漢字は変えられているが「大栃」という地名は普通に存在する。また主人公たちの村である「茂伸村」にも「物部村(ものべそん)」という元ネタが存在する。

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縮尺は実際と変えられているが、地図で言うとこんな感じ。

本当に道が1本しかない。

土佐という地名から類推できる通り、高知県に存在するこの村は人口3000人強で主な産業は林業と柚子の生産だという。2006年に香北町土佐山田町と合併して香美市になっており、現在では物部村は存在しない。

このように市町村の合併により、古い地名が消えてしまうことについても何かノスタルジーを感じざるを得ない。

 

主人公の住む集落は「不至(いたらず)」であることが明かされており、そこはオリジナルの地名である。

現代風に住所に直すとしたら

高知県 香美市 茂伸村 字 不至 というところだろうか。

もしかしたら字の前に大字 大土地 というのが入るかもしれない。

 

 

このような、現実に即した物語を伝奇ものという。

よくファンタジーを日本語に直したものが伝奇だと言われるが、ファンタジーは背景が現実に即していないものを指す、と微妙に異なるらしい。

伝奇ものの代表作としては「ひぐらしのなく頃に」とかになるのだろうか。実在する伝承をもとにストーリーを作るのはすごく私の好きな展開なので、私は伝奇ものが好きである。

 

 

話は戻って、妖怪の話には、民話、伝承といったものが下敷きになっていることが多い。

先日、GA文庫から発売されている「竜と祭礼 ―魔法杖職人の見地から―」というラノベを読んだ。

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この話は壊れた魔法杖を修理するため、その芯材となっていた竜の心臓と呼ばれる石を探すために、主人公たちが伝承にあった村へ向かい、そこですでに失伝していた竜に関する祭りを調べ、竜の心臓に関する謎を解き明かすというものである。

今ならPrime Reading対象でアマゾンプライム会員なら無料で読めるため、是非読んでほしい。

物語中で主人公たちは、竜の祭りが帝国の侵攻と共に失われ、土着の宗教がなくなってしまったことを知る。これは古来の日本にも言えるのではないか。古くは仏教、またキリスト教も本来は日本古来の宗教ではない。それどころか八百万の神というように、古代の日本にはいたるところに神がおり、それら新興の宗教の流入に従って、消えていった神や妖怪の類がいるのかもしれないなと想像すると、悲しい気持ちになる。

私は横溝正史の「金田一耕助」シリーズに見るような、日本の古くからの奇妙な風習というものが好きで、日本の妖怪の地域差は、地域ごとの独特の宗教、風習からきていると考えており、その内容を伝えていくことは後世にとって重要なことだと考えるが、担い手の不足などの様々な要因により、こういった伝統が失われつつあるのは残念なことである。

それでなくても伝統ある祭りというものは、楽しさの中にもどこか不気味さ、そしてある種の禁忌を感じるものであり、妖怪とは切っても切れない関係であると考えられ、私はそのまとった雰囲気が好きである。

 

このような昔あったかもしれないものに想いを馳せる究極の作品として、「SCP-8900-EX 青い、青い空」がある。

SCPとはなんだという疑問や、当該SCPについての解説は各自ググってもらうとして、この作品は本当に私のお気に入りで、何とも言えない読後感が最高なので、知らない方は是非調べてほしい。youtubeニコニコ動画に解説動画も数多く上がっている。

 

 

話題を変えて、妖怪たちにとって、信仰は不可欠なものだと思う。

「ものべの」を書いたシナリオライターさんも述べているが、妖怪というのは人々の無意識の集合知の集まりから生まれた存在である。

例えば、山崩れが起こった時、そこに巨大な足跡を想像した人がいたとする。その考えが人々に伝播し、その数が一定数を超えた時、「大足」という妖怪が生まれるのだ。

その誕生の性質から、妖怪は人々に認知されなくなったとき、消えてしまうと考えられる。田舎にある、人々に忘れ去られたボロボロの祠に住む、小さな土地神の話などはよくあるが、(そして好き)そういった昔ながらの妖怪たちは、時代の流れとともに絶滅していっているのだ。文明が発展したことにより、夜の闇は払われ、河原は固められ、木々は伐採された。また科学の発達により、人間は自然現象を解き明かせるようになった。そのため妖怪たちは姿を消していった。

もちろん、そういった環境に適応していった妖怪もいる。いわゆる都市伝説と呼ばれるものの類であり、新しい妖怪たちだ。人々の心から妖怪が消えることはない。それは、人々の心が妖怪を生み出すからだ。しかし、古くからの妖怪は、時代の変化とともに消えていってしまう。

妖怪には「性(しょう)」というものがある。性質、と言い換えてもいいが、妖怪は人間とは違ってそのままを受け入れ、自分から変化を起こすことはない。例えば山で人間をおどかしていた妖怪が、山に人が来なくなったため、街で人をおどかすことは絶対にないのだ。

したがって、何度も言うが、人々から忘れ去られた妖怪はただ消え去るのみであり、妖怪ものの作品では、この消えてしまいそうな空気感をいかにして背景に流すかという事が一つのポイントではないかと考える。

 

妖怪もののもう一つのポイントは、登場人物と妖怪たちとの流れる時間の違いである。妖怪たちには年齢という概念が薄く、見た目もほとんど変化しない(求められているイメージのため)と考えられるため、妖怪と深く付き合った人間は、必ず自身の老化、または死という現象と向き合うことになる。作中の1ルートでは主人公は妖怪と結婚し、子供をもうける。半人半妖の子どもは不思議存在として、主人公は確実に妻である妖怪より先に死ぬため、その問題をいかにして折り合いをつけておくかということも重要なポイントである。また妖怪の側も存在理由がなくなったとき消えてしまうため、消滅を防ぐには主人公以外の生きる理由が必要となる。

この展開は、例えば難病を患ったヒロインに告白するとき、などにも同じことが言えるが、主人公側がほぼ確実に先に逝く側になることが異なる点であると思う。この問題をどう描くかについても妖怪ものの作品を書くときには必要な要素だと考えている。

「ものべの」においては、妖怪にとっては思い出が宝になる。という言い回しをしている。その宝は、見せびらかしてもいいし、大事にしまっておいてもいい。しかし、宝を持っていなければ、どうすることもできない、と。だから主人公には、毎日を楽しく過ごしてほしいという裏の意味まで考えられる、素敵な言い回しであり、とても感動した。

 

総じて妖怪ものではこういったノスタルジックで儚げな空気感をいかに表現するかが、私の好きなところである。残念ながら私は実際の妖怪を見たことはないが、人々の心の中に妖怪が住んでいることについては理解できる。

また大昔、人間と妖怪の間で争いがあり、その結果妖怪たちは人間と干渉しない別の世界へ移住してしまったのかもしれない。そういった想像をするのも、妖怪に触れるときには悪くない。

 

願わくば多くの人が妖怪について忘れないでいてくれることを祈っている。